田中 滋(たなか しげる)
京都機械工具株式会社 代表取締役社長
生年:1956年
日本の上質工具の代名詞とも言われるKTCブランドを展開する京都機械工具(以下、KTC)。「軽くて強くて使いよい」をコンセプトに創業時から工具を作り続けている。そんなブランドメーカーに京都舞鶴からやってきた青年がかつての田中滋である。田中社長はどんな人生を歩んできたのか?取材をしていくと現在の大学生にも学びにつながることが見えてきました。
田中社長は幼少期、どのように過ごしていたんですか?
僕は小さい頃はおじいちゃんっ子でした。小さい頃からおじいちゃんを見てきて影響を受けてきました。
おじいちゃんはどんな人だったんですか?
実業家タイプでしたね。子供の時に聞いた話なので記憶が曖昧ですが、当時1校しかなかった小浜水産を卒業して若い時、樺太に渡って缶詰工場を興して、大成功しました。それで船を何隻か買って周りの方に貸し出しをしていたような人です。
すごい方ですね。
だけど、当時はまだ保険が整備されてなかったらしく、船が事故にあって何隻か沈んだことがあったんです。おじいちゃんは沈んだ船の乗務員やその家族にお金を払うために缶詰工場全部売って、事業を撤退したんです。お金を払う義務はありませんでしたが、それがおじいちゃんにとってのけじめだったんでしょうね。その後は、今で言う北朝鮮に行って、繊維工場を興して成功させたんです。そうして終戦になって、舞鶴に帰ってきて次は製網事業を始めたんです。
次々に事業をされて有能な方だったんですね。
そうですね。でもこの話には続きがあって、製網事業も好調だったのですがちゃんと特許を取ってなくてね(笑)。しばらくして真似をされてしまいました。
なんだか惜しいですね。
子どもの時は身近に工場があって、製品が出荷されるのを間近で見てきました。子ども心にメーカーって面白いんだなって思っていましたね。
それが今の田中社長の考え方につながっているのですね。
それで言うと親父に影響を受けたところもありますよ。親父がおじいちゃんを継いでやっていた頃、販路がなかったから大手商社に網を販売してもらっていたんです。そしたら商社の人が仕事に来るんですね。仕事と言っても釣り好きで、舞鶴の沿岸で釣りをするんです。それに対して親父が何日も準備して真面目に接待するんです。それを見てメーカーにとって販路は大事だと考えるようになりました。この経験は今に影響を与えているように思います。
そうした経験を経て舞鶴高専に入学されたんですね。ちなみに高専を選んだのはどうしてなのでしょうか?
舞鶴高専の黒板がかっこよかったからです。
え?黒板ですか?
普通高校と高専を両方受けました。それで学校に行ってみたんです。そしたら高専の黒板は大学にあるような大きくて端が反ったものだったんです。僕それみてデザインに感動しちゃって。一方で普通高校は木の椅子で平坦な黒板。この差を目の当たりにして、高専に行くことを決意しました。
高専ではどんなことをしていたんですか?
機械科でしたよ。高専にいるときは、設計が好きだったし賞をいただいたこともあります。
将来は親父の会社を継ごうと思っていました。
え、でも今KTCに……
なぜかKTC入っちゃった(笑)親父に「この会社は絶対に役立つぞ」って言われて面接に行ったらその日のうちに採用されてしまって。設計を考えていたんですけど、将来設計できるからって言われて現場に入ることになりました。結局設計には行きませんでした。
なるほど。
現場をやって、1年半くらいしてなんとなく仕事の感覚を掴んできた頃に突然営業に回されました。そして27歳になった辺りで転機が訪れました。コンピュータの情報システム部門に配属されました。これが楽しくてね。元々物事をシステマチックに考えることが好きだったので、KTCに足りていないシステムをどんどんプログラミングしていきました。
コンピュータの部署に移って良かったことはありますか?
システムっていうのは個々の業務を有機的につなぐことです。現場にいたら最前線なわけだから俯瞰的に見るということができなかった。その時に見えなかったものが、客観的に見れるようになりました。営業に対してはこうあるべきじゃないか?ということが少しずつ見えてきて、必要なシステムを作っていきました。
順調な人生を送っているように見えます。
当時、周りは先輩ばかりで知識もできることも敵いませんでしたから、30歳で初めて管理職になった時に十二指腸潰瘍になりました。
どう乗り切ったんですか?
ある時会社にコンピュータのOSが変わるという連絡をもらいました。コンピュータのOSは5年に1度変わるんです。そのプログラムが変わるたびに方法や仕組みが全然変わるんです。これはチャンスだと思いました。それからは朝早く起きて先輩より早く会社に来て、説明書を全部読んで、新しいシステムの方法を数千ステップ全て理解しました。そうすると先輩の私を見る目も変わっていったようです。
そのあとはずっとコンピュータのシステムにいたんですか?
いえ、マーケティングの部門に配属され、その後に営業に戻って社長になったのが2019年です。
経歴を聞くだけで驚いてしまうのですが、どうしたら田中社長のようになれるのですか?
何も特別なことをやっていたわけではなく、一つ一つの「正しい」判断をしてきただけです。
どういうことでしょうか?
社長になるときに「迷ったら正論に帰ろう」と決めました。正しいか正しくないか、で判断しようと。物事は自分の立場によって判断が変わることがありますが、迷ったら絶対正論に返った方が良い。じゃないと大概バレますね。社会に出ていって、上司から色々言われたり、お客様からクレームを言われたりして、判断を強いられることがあります。迷ったら正論に返って、正しいか正しくないかで判断してきたからここまで来れたんだと思います。
どうしてそう思うようになったんですか?
おじいちゃんの影響が大きいですね。おじいちゃんはやらなくてもいいのに海難事故の乗務員やその家族を大切にした。彼はそれが正しいと思ったから。重大な局面ほど正直にならないとだめだと思います。
それはこれから社会に出る大学生にも通じますね。本日はありがとうございました!