スター株式会社の西村社長に取材!

こんにちは!表現インターン生の日野です!本日はスター株式会社の西村社長にお話をお聞きしました!

西村 裕行(にしむら ひろゆき)

スター株式会社 代表取締役社長
生年:1968年

1、スターの歴史

西村社長、本日はよろしくお願いします!早速ですが、はじめに会社の歴史をざっくりと教えていただきたいです!

うちは今年で創業95年になります。初代(西村寅太郎)は明治の人なんですが、「殖産興業で列強に並ぼうとしているが体格が劣っている、洋食を食べる必要がある」といったことを書き残しているんですね。

それで洋食業を始められたんですね!

そうです。そうではありますが、今では洋食は外国のものではなく日本のものになってきています。外国人はハンバーグやオムライスを日本食として食べにきていますよ。

それは知りませんでした。

寅太郎は時計屋になろうと思ってアメリカに渡ったのに、時計の修行してるよりも儲かるということで飲食業のバイトを始めたんです。その後、アメリカで飲食店を始めて、大儲けしてそのお金を持って日本に帰ってきました。何か日本でしようと思ってたけど何をするかは決まってなかったそうです。洋食は昔高かったですからね。けど、うちは流通を努力したりして、安い値段で提供したから流行ったらしいです。うちより古いレストランはいっぱいあるんだけど、たくさんチェーン店で出店したので、昔の人は洋食といえばスター食堂と思っていたと聞いています。

その後はどう展開したのでしょうか?

(その頃は)忙しかったからひたすら仕事をしてて、組織が大きくなっていくごとにサラリーマンコックさんみたいな人が増えてきて。時代が変わる中で対応できずに売り上げは減っていったんです。洋食が家庭の料理に入っていき、レストランで食べる特別な料理ではなくなってきたのですね。父親(3代目)も大きな流れを変えることはできませんでした。スターは洋食から始めたんですけど、洋食というものが一般的になってきて晩ご飯に洋食を食べなくなったのが原因だと思います。

お父様(三代目)はどんな方でしたか?

父は洋食の原点であるフランス料理を極めようとした人です。フランスの労働許可証をもらった戦後初めての日本人でもあるから、日本でのフランス料理の先がけでもあるんですね。

社長は何代目ですか?

僕は5代目です。4代目が立て直して、僕が発展させました(笑)時代の流れもある気はしますが。

どうやって発展させたのですか?

うちは夜の売り上げが減っていることに気づいて、夜に居酒屋を始めたりキリンビールと手を組んでビールを開発したりしました。

居酒屋業界への転換ですね。

うちの会社って儲かってる時になんで儲かってるのか考えずに「これや!」でやってきたんです。その時には、かなり繁盛したようですが、時代が変わって儲からないときに対応できなかった。

そうだったんですね、今はどんなことをされているんですか?

今では焼肉、豚のしゃぶしゃぶ、とうちの大事なところが活かせるならどのような飲食店でもチャレンジするようにしています。

社長はもともと引き継いで社長になるつもりだったのでしょうか?

受け継ぐつもりのような、そうでないような。というのも小学生の時に影響を受けたドリトル先生という物語から、昔は博物学者になりたいって思いました。社長になりたいとかは特に思っていませんでした。大学卒業して父に「フランスに行かへんか?」って言われたから「はーい」って、それで行って。フランス語を中心に学んでたら、新しい店ができるから帰ってきなさい、って社長から言われて(笑)「おれ会社就職するの?」って思いました。でもフランス行ったからしゃーないなって思って就職しました。

学者の夢はどうなったんですか?

実際に自分で勉強したりそういう人を見たりしているうちに、自分に向いてないなって思ったんです。一つのことを掘り下げるってとても大変でしょ。実は学者の他にもやりたいことがあって、僕はお稽古ごとをしていた影響で学校をしたかったんです。教える場みたいな、寺子屋みたいな。そしてふっと気づいたことがあって、会社って学校じゃんって思って、それで考え方が変わりましたね。

会社が学校か、、考えたことないですね。

その時は社長になるかどうかわからんくて、料理することだけ考えてたんですけど、突然社長が倒れはって。そのタイミングで社長に「やる?」って言われて、社長になりました。なので頑張って社長にならねばみたいなのはなかったですね。

2、天真爛漫な学生時代

大学の時は何学部でしたか?

農学部です。

どうして農学部に入られたんですか?

本当は理学部がよかったんだけど、落ちちゃって。それで何がしたいのかって考えたら農学じゃん!ってなったから、ですね。

農学部では何を学んでいたんですか?

森林科学科っていって、森を作る学問ですね。昔は林業したり、ダムを作ったり、切った木をどう加工するのかを勉強していました。

どんな学校だったんですか?

うちの学校は12年通う(学部8年+院4年)のが普通でした。僕が4年で卒業したら変わり者にされましたよ(笑)。

すごい学校だ(笑)学生時代に得られたものってなんですか?

学生時代は一生ものの友達ができたことと、ものすごい奴がいて自分が小さく見えたことです。

社長自身は学生時代どういう人だったんですか?

僕は普通でしたよ。教養から学部に上がった時に、下駄履きを禁止されたんです。それまでは高下駄に袴で通学してたんですけど、学部になったら「下駄履きを禁ず」って張り紙があって、それから下駄履いて学校行けなくなったくらいですね。

普通ではない気がしますが、、

学校はすごく面白かったですよ。大学の頃は学校の授業より温泉行ってた気がします。先生が変わってたんです。「学校の授業より外に出るほうが勉強になる」って言って。「わからん奴は教えてやる。テストだけ良かったらいい」って感じです。

すごく自由な感じがします(笑)

私たちが「葉っぱっば」と呼んでいる木の種類を覚える授業があってね、授業で木を見に行って名前を覚える。毎週木曜日の午後、山行ってこれは何々、切って持って帰って標本にして覚える。テストでは、5種類ずつ、10台の大きな机に木の葉っぱが枝ごと乗っていて名前を書いていくんです。50問出るんですけどこれが全然わからない(笑)

難しそうですね。

草刈りさせられたこともあるな、学費払っているのに(笑)「今日は向こうの谷までします」って言われて近所のおばさんと(草刈りを)一緒に。僕らは刈ったらあかんやつまで刈ったりして。

やっていることがすごい!

めちゃくちゃだったけど楽しかったです。しょうもないことも教わった。世の中は広いなって思った記憶があります。

大学生活を満喫しているのが聞いてて伝わります!

大学のやつもみんな面白かったです。寮で勝手にヤギ育ててるやつがいれば、鳥の声を全て聞き分ける先輩もいましたね。僕はお金あったらガソリン代にしていろんなとこ行っていました。楽しくやってました。

大学時代の生活から学んだ教訓は何かありますか?

「なんとかなる」って思うようになりました。人生思い切りと目分量。農家のおじさんとかと話してたら、今年の収入が台風のせいで0になったのに「仕方ないよね」って平気で言うんです。まじかって思いましたね。仕方ないって言える心の大きさ、自分なんてちっさいなって思いました。大学では勉強というより一生懸命遊んでました。

人生思い切りと目分量か、楽しく過ごせそうな感じがしました!最後に今の大学生に対してメッセージをお願いします。

僕もいろんなことやってきたけど、何かしようと思ったらいくらでもできるんです。下宿で畑やったり、友達は田んぼやったり。一日中寝てられたりするのは大学生の特権ですよ。今じゃなかなかできない。一日ぼーっとして寒くなって温泉行って、「お兄ちゃんそんなに暇なら手伝え」って言われておばあちゃんの畑手伝う、楽しかったです。20歳前後は多感な時代です。いろんなことしはったらいいと思います。その時は一生懸命すること、(一生懸命)すればするほど残りますよ。

楽しそうに大学時代を振り返る社長を見て、自分もこういう大学生活を送りたいと思うことができました!西村社長、取材に受けてくださってありがとうございました!