アボワールインターナショナル株式会社の中村社長に取材!

中村 真由美(なかむら まゆみ)

アボワールインターナショナル株式会社 代表取締役
生年:1961年

23歳の時に結婚を機に京都へ嫁いできた中村社長。これまで男性が中心となっていた社会に対する理不尽と向き合ってきた。そしてその中で苦しいことや辛いことをたくさん経験したと言う。毎日「自分の中にあるドア」を閉めようとしてきたそう。「自分の中にあるドア」とは?20代の時、どんなことを体験し、それがどう今に繋がっているのかを取材しました。

がむしゃらに働いた20代

中村社長の現在に至るまでの経緯を教えてください。

学生時代は本当に何にもしてなかったですよ。何がしたいか決められなかったし、特にしたいこともなかったですね。とにかく働けばいいんでしょ、という感じで最初は地元(広島)の病院で事務をしていましたが、そんな長くは勤めませんでした。結婚を機に23歳で京都に来て、すぐに再就職しました。若い時はよく職場の上司の人と喧嘩していました(笑)。そこで働いていた男性社員の多くは、給料をもらっているのに全然仕事しないんですよ。それと「女だから〇〇」という考え方が大嫌いだったので、負けないくらい働こうと思っていました。どうせ子どもを産んだら辞めるんだろって思われるのも嫌で、絶対辞めない!と必死に働きましたね。

すごいパワフルですね!どうしてそこまで頑張れたんですか?

当時の社会は女性に対して理不尽なことがとても多くて、それに抗っていました。そして、そうやって頑張っているところを子どもにも見てもらいたい、という想いもありましたね。あとは仕事が好きなのもありました。認めてくれた上司もいたので、仕事で苦しいこともあったけど楽しかったですよ。

その時の心情についてもう少し伺ってもいいですか?

会社員の時、私の頭の中には1つのドアと2人の自分がいました。「ドアを閉めようとする自分」そして「ドアを閉めることを引き止める自分」です。ドアを閉めるというのは、目の前の全てをシャットダウンすることを意味します。締め切るのが怖くて、いつもギリギリのところで閉めないように生きていました。リーダーとしてやらせてもらっている以上責任感もあるし、部下として慕ってくれている人もいたのでなんとか耐えていました。

追い詰めていたんですね。

1番辛かったのは、プログラミングを40歳を過ぎて勉強し始めたことですね。知らないじゃ済まされないわけですから、簡単なものはプログラミングできないといけない。仕事の合間に勉強していたので、多忙な時は段ボールを会社の床に敷いて寝る……といった感じで、帰れない日も度々ありましたね。

転機

そんな中村社長のターニングポイントを教えてください!

乳がんになった時ですね。2011年でした。乳房の治療をしました。無事治療が終わって、さあ、また新しい人生の出発だ、と思ったのに、自分に合うブラジャーが無くてどん底に落とされた気分でした。乳がんの人はおしゃれをすることもできないんだ、と絶望しましたね。乳がん用のブラジャーを探しましたが、全部ベージュ色だし、全国どこでも手に入るものでもありませんでした。「だったら私が創ろう!」と創設したのが今の会社です。

それはすごく大変なご経験でしたね……

でも今は、私が乳がんになったのは、この会社を創るためだったって思えてるんです。こうやって仕事ができていることが本当に楽しいし、やりたいことに繋がった気がします。

それじゃあ、あの閉めかけていたドアは…..

気づいたらなくなっていました。もう一人の自分が出てくる必要がなくなってすごく気が楽になりました。

これからを創る若者へ

もしも、大学生の中に、ドアを閉めるか閉めないかで毎日苦しんでいる人がいたとしたら、なんて声をかけますか?

「閉めてもいいんだよ」と言います。閉められないように開けて頑張っている時は自分がどれだけ頑張っているのかなかなか気づけません。苦しみを抱えながらこのまま進んでいくのであれば、一旦責任感の重さから解放されてもいいんじゃないかなって思います。

ありがとうございます。最後に大学生に伝えたいことがあればお願いします!

ありきたりなことかもしれないけど、貪欲に色々な経験を積んでください。今は、ネットがあって、世界中の人と繋がれる時代です。考え方を共有できるチャンスもたくさんある。そうやってたくさん経験を積んでいくうちにやりたいことが見えてくると思います。
私は大学生の時に出遅れましたが、やりたいことを見つけるのは早いに越した事ないですよ!

女性に勇気を与える行動と言葉に感動しました。中村社長この度は取材へのご協力ありがとうございました。